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「消えた校歌」の紹介
「かまくら春秋 2009年7月号 No.471 創刊40年記念特大号」に掲載した「消えた校歌」をご紹介いたします。
港南台高校校歌を作詞した三木卓氏の連載「鎌倉その日その日」で、港南台高校が完校した事や、ALL同窓会でも配布した完校記念誌に触れながら、港南台高校校歌についての想いが書いてあります。 「かまくら春秋 2009年7月号 No.471 創刊40年記念特大号」の購入は、書店でお取り寄せするか、かまくら春秋社のホームページ より可能です。 雑誌名:かまくら春秋 2009年7月号 No.471 創刊40年記念特大号 出版社:株式会社かまくら春秋社 定 価:定価500円(本体476円+税) 「消えた校歌」 三木 卓
わけあって、しばらく留守にしていた仕事場に、大変な郵便物が着いていた。かつてわたしが校歌を書いたことがある神奈川県立港南台高等学校が、なんとなくなってしまう、という報告である。沢山たまった郵便物の山のために、気づくのが遅れてしまった。港南台高校がやがてなくなる、というはなしはたしかに聞いていたけれど、それがとうとうこの三月をもって、本当になくなってしまった。そうか。一瞬、ぼうっとした。 少子化のせいだ。この学校ができたのは、一九七三年。これは高校進学者が増加した、という全国的な傾向と、神奈川の流入人口が増加した、ということが関係していた。港南台高校ができたのは、その解決のためにJRが横浜から大船への新線(根岸線)を貫通させる、その完成途上だった。その沿線に港南台駅があった。そしてこの沿線は東京・横浜方面への通勤者の有力なベッドタウンとして形成されていくことになった。 今までタヌキが出るようなところへ線路を通したのである。わたしが校歌の依頼をうけて現地を訪ねていったときには、市街建設のためにつくられた道路や、削られて断面をさらしている土地がなまなましく、建った建物のあたらしさも対照的で、昔、映画で見た人工都市、ブラジリアのことなど、思い出したものだった。 かつての西部劇などには、開拓地のこどもたちのために先生を呼んでくる、なんて設定があって、そういうときは、何故かきわめて美しく、かつ若い女性教師(もちろん独身)がパラソルなどもってやって来ることになっているが、いわば港南台高校も、そういうことだったんだろう。 二つの高校を統合して一つにすれば、費用も大幅に削減できる。上郷高校といっしょになって、横浜栄高校になり、校舎は上郷高校の方を使うので、港南台高校は存立の場を失うのである。 私立ならばがんばるのだろうけれども、県立高校である。需要があふれれば増やすけれどへればへらす。税金を使っている以上やむを得ないことだが、そこは若者が育ち成長していく場である。寂しいとか、残念だ、と思うのは当然だろう。 さすがにその想いはあふれていて「神奈川県立港南台高等学校完校記念誌」は、まず学校の航空写真の全景からはじまる。そして三十六年間の年表。学校がなくなることを〈完校〉というなんて、残念が活字ににじみ出ているではないか。 完校記念事業実行委員長の挨拶を読むと、「学校名が歌詞に無いユニークで、不思議な校歌も、この完校式で歌い仕舞いとなります」とある。アハハ。やっぱりそうだったか。わたしの書いた校歌には、たしかに学校名の連呼がない。そのために、NHKがおもしろがってとりあげたこともあると聞いた。 あれは詩人で当校の先生だった平田好輝さんの依頼でした仕事だったけれど、わたしもまだ若かった。堂々たる校舎をたたえる校歌がほとんどで、建物なんかほめたってしようがないじゃないか、と思っていた。大事なのは、その学校にいる一人一人の生徒諸君の精神ではないか。学校の主体は、校舎などではなく、生徒諸君なのだ。今だってそう思っている。 それで校歌の定型をやぶる、これぞ清新なニュータイプと考えたものを書いたのだったが、これがどうなるか、渡したあと少々心配だった。どうやら校長先生は大いによろこんでいる、というのではなさそうな気配である。これは、ダメか、とひそかに覚悟していたが、やがて、うけ入れてもらえたのでホッとした。 作曲は、林光さんにおねがいした。歌詞はボロくても、林さんがやって下されば、必ず天下の名曲になるはずである。思ったとおり。すばらしい曲がついて、わたしは救われた。林さんは、その上、わざわざ来校して、合唱部の生徒諸君を丁寧に指導して下さった。 それ以来、林さんにはいくども作曲をおねがいした校歌があり、いずれもすばらしい曲になっている。 しかし、では生徒諸君はどう感じていたのか。やっぱりヘンな歌だと思っていただろうな。運がわるかったと思ってあきらめてくれよ。 多分大半はそうなんだと思っていたが、中にはそうでないと思ってくれた人もいた。卒業生の女性の一人は、「あの校歌を甲子園で」という文章を書いてくれていた。彼女は「しかし、とりわけ印象深いのは、あの校歌だろう。港南台という土地柄を全く感じさせない、スケールは銀河であり、地球なのである」といっている。うーん。そんな非ジョーシキな校歌を愛してくれてありがとう。 PTA広報委員会の出している「鉄塔」をあけると、〈ありがとう港南台高校!〉というよせ書きがあって、〈DANCEぶ まじかわいい〉とか、〈日当りサイコー!〉〈ベストをつくせ! 焼肉〉なんていう叫びの中に、赤で水茎のあともうるわしく。〈港南台高校校歌を歌いつぎま〜す♪ PTAコーラス一同〉とあった。これはお母さんたちだろうか。いや! ありがとう。おもしろがってくれた人たちもいる、いる。 まあ、どこの校歌とも毛色がちがう、というのは、注目点ではある。いい、わるいはともかくとして、特長にはなったはずだから、よく解釈して安心することにしよう。 合併で消えていく校歌もある。しかし合併でまた生まれる校歌もあるわけで、わたしはこの数年で二校ほど新しく校歌を書いた。合併前の校歌を新校歌にするわけにはいかないから、そうなのだが、しかし、見ると、その校歌は立派な文学者・作曲家の先輩が書いていて、思わず〈おれ…で、いいのか〉とおそれおおい気分になるのをとめることができない。 合併前も、その学校の歴史であるのだから新校歌をつくっても、歴史としてそれぞれの校歌は残して、生徒手帳になど記載しておいたらどうだろう。ときには歌ってくれたら、なおいい。 この文章、港南台高校へ送りたいけれども、それはもうない。だれか関係者の目にとまってくれたら、とねがう。 (作家・雪ノ下在住)
(補足1)雑誌記事の情報を提供して下さった13期 田中裕子さん、ありがとうございます。 (補足2)「あの校歌を甲子園で」は、完校記念誌(19ページ目)の16期 伊藤有紀子さんの投稿。 |
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