件名 |
2011年9月23日現在の港南台高校校舎と校庭、体育館 |
投稿者 |
2期 ハゲ田舎おやぢ |
投稿日時 |
2011/09/26 10:37:24 |
情報 |
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2) |
記事 |
校歌祭のステージが終わった後、他校の校歌を聞くより、久し振りに横浜に出てきた埼玉のおやぢは、この機会に港南台を見て来ようと思い、横浜芸術劇場から石川町へ、そして港南台へと向かいました。
途中の車窓からは、思い出の根岸のタンク貨車の集積も見えず、中学の頃に通ったプールも見えず、よそよそしい景色を見つつ、港南台に下車しました。
駅の出口の前は全く異なっており、ほぼ三十数年ぶりの光景は、どこか、知らない山の手の住宅街のようでした。 昔通っていた線路際の通りに入ると、昔の面影は全くなく、少しさびれたような通りになっていたのが残念でした。昔はメイン通りだったのに、今は裏通り的な場所になっているのです。
やがて見えてきた港南台校舎の前には、見たこともないモダンな歩道橋が架かり、校歌の一節、「あがる橋」は、これを予言していたかのようです。
正門には、木製の分厚い板が打ちつけられ、「横浜立野高等学校」とありました。 交差点の信号機には、「港南台高校前」の昔ながらの表示です。
幸い、門は開かれ、何かの催しがあるのか、車が沢山構内に止められているのが見え、堂々と中に入ることができました。 選挙でもやっているのか、と思ったところ、体育館で球技大会をやっており、女の子がバレーをやっていました。
一応体育館の中を見て、中を携帯で撮影しようとしましたが、やっているのが女の子だし、ウスハゲのおやぢが写真なんか撮っていると怪しまれそうなので退散し、他を見てまわりました。
懐かしさはありません。 私の知っている校舎とは全くことなり、色もクリーム色が色褪せ、かなり古いというより、使われていないような校舎になっていたからです。違う高校の校舎のようでした。
七十年代の出来たての校舎は白く、それはきれいな印象として残っているばかりです。 それでもあちこち、写真に撮って持ちかえってきました。 何か言われるかなと思いましたが、校庭で野球をやっていた野球部の生徒からは、きっちりと挨拶され、父兄の一人として認識されていたようです。
校門からの校舎、体育館、玄関とその中、校庭、テニスコート、プールなど、存分に撮ってきました。 携帯の写真解像度が悪く、あまり鮮明ではありませんが、いい思い出となりました。
校舎を見て特筆すべきは、全ての校舎と施設を使ってはいない、ということでした。 体育館と、玄関付近の校舎の一部だけしか使ってないようで、後は荒れ果てているままです。 校庭も、半分をネットで遮り、プール側は使っていません。 丁度野球部が練習試合をしているところでしたが、半分に分けた校庭でも高校生が野球をするのに十分な広さがあることに驚きました。
プールは水が貯まって緑色のどんよりとした水面が見え、周りは立ち入り禁止みたいで、荒れるに任せているみたいです。
その向こうにあるテニスコートも荒れ放題で、いつか使ったままの状態で時間が止まったような感じでした。
シンボルの鉄塔は、土台のコンクリートの壁が雑草に覆われ、山のような感じで、昔の校庭の雰囲気は全くなく、山の中にある田舎の高校の風景として感じました。
構内の玄関側の庭に植えられている木々は太く成長し、大学のキャンパスのような風景で、私の思い出とは違っていましたが、葉の緑が鮮やかでとても良い場所のように感じました。
玄関の中に入ったとき、下駄箱がクラス毎に並んでいるのを見て、ああ、昔は此処で履き替えたものだという感慨に浸ることができましたが、その他は違う学校を訪れているような気がするだけで、校舎も薄汚れた水の流れた後が所々について、昔の雰囲気は全くありません。
まあ、年月も経てば、あのようになるのも当たり前なのかもしれません。
横浜市は、保育園の数が少なく、待機児童が600人くらいいるそうです。
教室を保育園として開放して使うとか、校庭はスポーツの場として利用するとか、立野高校が去ったあともなんとか存続の道はないかと思いながら校門を出て、昔唯一存在した港南飯店というラーメン屋でメシを喰おうかと予定していたのですが、そんなものは場所さえも特定できず、全く異なった町並みの中を駅へと歩いていくしかありませんでした。 |