開校当時のお話 掲示板

Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: 当時の様子第56話

2期 田舎おやぢ
(2010/02/25 16:53:59)

>ミッシェル・ポルナレフですか。中学時代に同級生で好きな奴がいて、文化祭でピアノ弾き語りをやっていました。「愛の休日」とかでしょう? 

私は積極的に好きではなかったので曲名は詳しくないのですが、港南台が日野高校に間借りしていたときのバス通学のイメージって、なぜかこの兄ちゃんの曲ですね。当時やたらかかっていました。バスから降りて日野高校まで歩くと結構あり、我々ブレザー組は、詰襟の黒い中、少し肩身が狭かったように思います。

ブレザーにネクタイというのも性に合わず、それに慣れない皮靴なんていうのも嫌いでした。お昼はお弁当だったのですよね。そこらへんの記憶が全く残っていません。新校舎には各階に牛乳の自動販売機があって、その中身は今は見ることができないテトラパックの白い牛乳とコーヒー牛乳だったような気がしているのですが、これでよかったでしょうか。しかもこの自動販売機、よくおつりが出なくなって、十円程度でも頭にきたことを良く覚えています。(人間が小せ―)

そういへば、我々のプレハブ校舎は日野高校グラウンドの隅にありましたが、下校にはこのグラウンドをつっきって対角線上にある本来の道ではない、雑草の生えた土手を登っていくと大通りへの早道でした。しかし、この土手道は禁止地帯らしく、日野高校の先生に見つかると怒られてしまいました。たしかバックネット裏の土手だったと思います。

プレハブの港南台校舎は下駄箱が外にある、いかにも急造といった感じで、男のトイレは隣同志が狭くて、プライバシー?もなく、出るものも出難いオープンなものでした。やり難かったのを覚えています。

職員室なんかも併設されていたのかなぁ、無いわけないし、あったのでしょう。プレハブの中で文法とリーダーに分かれた英語や、中学にはなかった古文、確率も習っていないのに遺伝の法則で何がなんだか訳がわからなくなった生物、因数分解なんて詰まらないものの代表だと思った数学、地図を眺めてボンヤリしていた地理、という高校生活が始まったのでした。

授業のあと、まっすぐ帰らずに上大岡に出て電気屋さんでオーディオを見たりして、今は死後となったオーディオマニアが沢山いた当時、クラスの連中と買えもしない機器の品評会を行ってました。

あと、面喰らったのは、入学早々に『自叙伝』を学校の方針で全員が書かされたことです。担任の上田先生という地理担当の面白い方でしたが、「まだ自叙伝書く歳でもないのになぁ」という気遣ってくれた言葉を覚えています。なにを書いたかは忘れてしまいましたが、16歳程度では自叙伝などというものに意欲が湧く筈もなく、つまらない作文という感想しか出てきませんでした。新設高校の心意気みたいなもので課せられたものだったのでしょうが、それにはこちらの意識が低すぎました。この先、もう自叙伝をかくことはないでしょうから、唯一の早すぎた経験です。

そうそう、プレハブ校舎は隣の教室との壁がベニヤ板一枚程度で、一か所穴が開いている所が存在し、隣のクラスを覗いたり物を放り込んだり、悪サをして遊んだ経験があります。もちろんスグに塞がれてしまいましたが。

この間借りの時代は学校に行くのがあまり嬉しくなく、勉強にも身がはいりませんでした。かといって新校舎落成後も勉強はできませんでしたが、やっぱりこのプレハブ時代は伸び伸びできませんでしたよね。一期生の諸先輩方は長い利用期間でしたが、どんな感覚で過ごしていたのでしょう。
我々は半年くらいでしたっけ。新校舎に移ると電車で通学が出来る、というのが、なんか本格的な感じでもあり、開放感ありました。自己満足かもしれませんが、日野高校という名前より、港南台高校の方が名前がいいですよね、あ、やっぱ自己満足ですね、でも駅も同じ名称だし、いい感じでした。

>学生時代に大学の生協のセールで集めたロック、ブルースの名盤といわれるアルバム(LP)も捨てるに捨てられず持っていますが、ジャケットを眺めるだけの存在になりつつあります。

そう、高校の頃は今は亡き30センチLPのジャケットを良く眺めていました。あの頃はビデオやDVDによるプロモーション活動はなかったので、それだけジャケットの造りに凝っていて、芸術性や思想性の高いものが多く、見るだけでも楽しく、且つ高尚な感じも受けていました。
今のCD,DVDは小さいからデザイン的にも小粒にみえちゃうし、ネット経由でデータとして取り込む時代にもなったから、我々が見上げるように見ていたジャケットデザインの文化は無くなってしまうのかなぁ。

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港南台高校 同窓会