開校当時のお話 掲示板

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> いいですね「青春を謳歌せよ」なんて思いながら高校から団地の空き地を友と語り合いながら駅へ向かう。
そうでした、そうでした、団地の区画だけ造られたような空き地を語り合いながら下校してましたです。広い感じで良かったですよね。今ならきっと窮屈な感じで家々が建ち並んでいるのだと思います。すると、やっぱり、ちょっとヨソ行きの顔なんかしちゃって、ボク高校生ってな感じなのでしょうけど、当時は原っぱのトンボやバッタ、薄の群れの中を通っていた自由な雰囲気でした。
>そんな結果は浪人。明けゆく空がつらかった。
この前、横浜駅西口にあった「横浜アカデミー」という私が通っていた予備校をついでのときに見に行ってみましたが、ビルはあったものの、中味はちがっていました。あの浪人一年目の最初の半年は、ほんとへんな言い方かもしれませんが、新しい環境になり、輝いているような気もしました。と、いうのは言い過ぎかもしれませんが、やっぱ、若さです。新しい環境というのを積極的に捉える世代でしたね。
横浜駅は変わっていました。ダイヤモンド地下街は変わらずあったものの、知っている店は有隣堂くらいなものでした。よく高校の帰りに寄ったものです。あの頃読んだ本や見たモノ、絵画は勿論、町の風景や駅の中の雰囲気など、今の私に大きく影響していますが、横浜駅は駅の構造自体が変容し、昔の面影は無い、といってもいいような感じを受けました。東横線が無いんですよ、よく食べた京急の立ち食いそばとうどんの店も無いし、横浜焼き、だったかなぁ〜、カステラみたいな丸いお菓子も売ってないようだったし、改札口の位置が中央になってしまっていました。
ダイヤモンド地下街で良く行った焼きそば屋さんや、レコード屋さん、三越も無いし、有隣堂と同じく高校の帰りには必ず寄ったジョイナス栄松堂の本棚の位置も当然変わっていたし、高校とともに、無くしたものは卓さんある、という寂しさを感じてしまいました。
とにかく昔の面影、特に飲食店が様変わりしていたのが、驚きでした。まあ、当たり前なのかもしれませんが。
それと、高校を下校して横浜に寄ってから保土ヶ谷に向けて帰る夕方に、必ず駅のホームで聞くことのできた、『九州特急、○○号、柱番号何番に何号車停車〜』という、旅情を誘う案内放送も聞くことができなくなっていました。
老人のタワ言かもしれませんが、我々は現代になって得たものも勿論ありますが、失ったものも大きいのでは、と当時切望されていたものの、必ず国鉄の停滞主義で反対され、実現されることのなかった京浜東北線の快速電車に揺られながら、なんか釈然としないものを感じてしまいました。
>それが、今は京都の仏像巡りが趣味のおやじに・・・・とほほほ・・・明日は雨の「永観堂」にでも行って「みかえり阿弥陀」をじっくり見てきます。単身赴任の特権?
え〜、かなり羨ましいです。ぜんぜんトホホではありません。なんしょんさんも言うように高尚な、且つ、精神の余裕を感じるご趣味ではないですか。あの仏像の彫り、というのは、西洋にはない、慈悲の心といふか、独特のものを感じさせられますよね。
>私もまったく同じ感覚でした。ミョ〜に「F」っていう濃さ硬さにこだわりを持っていました。ちょっと上から目線ってやつでしたかね。
そうそう、俺は「F」なんだぜ、てな感じ。こんなきっかけが、何かの始まりでもあるのです。
>ああいう情熱が何故か勉強には向かいませんでしたが、おかげさまでギターの腕は短期間でそこそこのところまで上がりました。
そういう情熱、いつまでも大切でしょう。今、失うまいと必死、頑張らなくちゃ。
> 私たちの年代は、若い時代に対する郷愁が何となく強くなる年代なんでしょうかね。
当時は昭和の四十年代から五十年代という変わり目で、高校に入学した四十九年というのは忘れられないですね、すぐに1974年という西暦も出てきます。心情的には親しく感じているのですが、36年といふ歳月が過ぎ去っているのと思うと、昔、むかしのお話になってしまいます。
> 当時は新杉田にも磯子にも駅近にボウリング場がありました。小学校から中学校にかけての空前のボウリングプームすごかったですもんね。
新杉田にもありましたっけ。駅前の広い感じの道路と高架のイメージしかなく、あとは京急杉田駅前の古い商店街、今では昭和レトロと表現されるようなアーケードの雰囲気しか覚えていません。
そういえば、久しぶりに京急に乗ったのですが、当時とは駅の名前まで変わっていますね。あと、急行がなくなっていたような。上大岡は降りてはいませんが、町の様子もだいぶ変貌してしまったでしょう。
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港南台高校 同窓会